【1章】20歳で着物デザイナー、人間国宝級のテクを盗んでイタリアへ!
プロフィールでお話するのは一番多く質問されること。
それは最も難しいデザイナーへの第一歩。
私が海外でデザイナーとして「0を1にした」経緯です。
なので最初にデザイナーとしての実績を簡単に‥

- 元々デザイン業界に全くコネなしお金なし
- 20歳で着物デザイナー、そしてイタリアへ
- イタリアのデザイン事務所でテキスタイルデザイナー
- イタリア国立映画実験センターに入って衣装デザイナー
- ソフィア・コッポラ監督の映画『マリー・アントワネット』に参加
- ファッションデザイナー
このような経歴を持っています。
今回のプロフィールでは
「どうやってデザイナーとしての現在のポジションを築き上げることができたのか?」
を紹介します。
そしてブログタイトルにもある
「デザイナーとして独立し、自分の力で十分に稼げるようになる方法」
の「ヒントになるようなストーリー」で書きます。
- これからデザイナーを目指す人
- 業界へのコネもお金もない人
- デザイナーで思うような結果が出ていない人
- フリーランスで独立したい人
- 海外留学して現地で働きたい人
それではまず、20歳で着物デザイナーになった話から。
【1章】20歳で着物デザイナー、人間国宝級のテクを盗んでイタリアへ!←イマココ
【2章】イタリアのデザイン事務所に体当たり、やり手社長の正しい正しい商業デザイン!
【3章】超難関!イタリア国映画実験センターで不滅の衣装デザイナーからしぼりとれ!
20歳で着物デザイナー、初の人脈は人間国宝級!
18歳の時にごくフツーの国立大学芸術学部へ進学。
絵を描くのが好きだったから。
この時点で絵がちょっとウマいレベル。
とびぬけた才能はありませんでした(汗)
ここで、偶然友禅染と出会いました。

生まれて初めて出会う超カッコいい本格的デザインの世界に圧倒されることに。
と強い気持ちが生まれました。
正座すらしたことのない私でしたが、日本伝統工芸、着物デザイナーの世界へ。
その時の師は偶然、人間国宝級のエライ人でした。
ここでトップレベルのデザインの『品格』を頭の先からつま先まで叩き込みました。

ヘンなデザインをすると師から
とか言われながら‥
そのかいあって、私の制作した能衣装が東京国立劇場の舞台で使用されるまでになりました。
今では某美術館蔵になっています。
私が若くして着物デザイナーになれたのはたまたま好きなものに出会ったから。
そしてきちんとした本物の知識を正しい人から直接おしえてもらったから。
これが人生初のデザイン界での人脈になりました。
このころの趣味は海外ビンボー旅行。
大卒時の選択肢は2つ。
- 某芸術大学教授の助手になる!
- 着物デザイナーとして日本伝統工芸のアトリエを開く!
でした。


海外旅行先で広い空間にある遺跡と、どこまでも青い空が広がるローマが気に入ったから!
それだけです(笑)
深い思想とかもない、思いつきです。

そしてイタリアの行き先は名門ローマ美術アカデミーの舞台美術科。
カッコいいでしょ?
だってここは国立なので学費が年間10万円未満と、とても安いからです^^
でもちょっと待って!
チョットあたし、計画しておこうよ!
もうしょうがないなあ、じゃあ‥?
なんとなくステキなイタリアへ語学留学!

半端な出願待ち期間があったので、早速イタリア語を勉強開始!
とりあえずノリでイタリア行っちゃえ~
でもできるだけ長くイタリアに行きたかったので、学費を押さえないと。
募集も年に何回もあるので、アカデミアより入りやすい。
外国人大学はシエナとペルージャにあります。
どちらもこじんまりとした歴史のあるステキな町です。
よくある質問、イタリア語学留学、どうやって行先を決める??

その中で留学先を小さな中世の城塞都市であるシエナに決定!
理由はもちろん
です(笑)
だって行ったこともない知らない街だもん。
シエナへ行っていた音楽家さんや画家さんのブログをチラっと読んだ感じ、よさそうだったから、です。
もしあなたがこれから行先を決定する場合、語学留学ならイタリア中どこでも楽しいと思います^^
国立外国人大学はシエナとペルージャにあり、
- クラスは大人数
- コースは最低一か月
- 入学時期が月に一度
- 寮の斡旋あり
です。
ここで日本で3ヶ月以上のコース分の予約金を払っての『ビザ取得』が重要です。
ビザさえあれば、6ヶ月のビザでも一年のビザでも、同じように滞在許可証はおります。
この滞在許可証をイタリアで延長すればOK!
とにかくイタリアでどこかに在学する必要があります。
国立の大学やアカデミアなら学費はほとんどかからないので、私はこのコースにしました。
私立語学学校は大都会にも田舎にもあります。
などに最適!
私にはもってのほかだった私立学校は、
- 毎週入学できる
- 費用がかかる
- 宿泊や滞在のトータルサポートあり
- 英語が通じる
- 一週間のコースがある
- 料理・アートなどいろいろなプログラムがある
など、お高い分いろいろな良い点があります。
国立外国人大学に行くって大変??
とにかく国立は書類送付とか、やたら時間がかかる!
なので思い立った時にすぐ情報収集始めたほうがいいです。
メールで送っても、すぐに見てもらえるわけではない、と覚悟した方がいいです。
「お客様は神様」ではありません!
「働く人が神様」です!!!!
その日のうちに日本の出身校の英語での卒業証明書を申請してもいいくらいです。
使わなかったらまあいいや、くらいで。
でも最近、外国人大学の入学手続きはオンラインで出来てカンタンなようです。
夢のよう・・
でもこれはその時によってコロコロ手続き方法が変わる!
なので絶対に東京の「イタリア文化会館」に聞いてみたほうが無難。
大人数だと上手く勉強できないという人もいますが私は少人数だと逆になんか恥ずかしいタイプ。
でも・・
これからイタリアに長く住みたいかもしれない節約中の人は国立一択!
ここは年間での入学時期が数回だけです。
一方スキルを磨く旅行がてらの方にはすぐに入れる私立学校!
ココは毎週入学できます^^
私は4月にイタリア語がしゃべれないままシエナ外国人大学行きを決定。
そして7月からのコースに超駆け足で申し込み。
シエナの正しいイタリア語を話す人脈でイタリア語速習!
そして7月のある日、格安の中華航空(長時間すぎてもう使えません><)でローマの空港に到着!
見知らぬ土地に行くのが怖くて、飛行機が着かないようにお祈り(笑)
コースがはじまってからはスペイン人たちの圧倒的な吸収力に負けないように頑張りました。
以下の勉強法は私の右脳を使う方用↓↓
広場にいるヒマそーなすべてのイタリア人が先生。
この正しいイタリア語を話す人々。
これがイタリア語学習の強力な人脈。
文法を勉強するより、耳で聞く言葉をすべて覚えるように努力。
イタリア語をイタリア語で覚えるようにしました。
初めは辞書は難しいので見ない!

私の初心者イタリア語学習法
- バスに乗ってゆったり座る
- 耳から入る発音をすべてノートに書く
- 降りてから広場に行って、ヒマそうなおじいさんかおばあさんを捕まえる
- 正しく聞き取れたか、チェックしてもらう
- イタリア語で意味も説明してくれる
- それを全部丸暗記
2週間は何もわからなくて赤ちゃんレベル。
日本人ともイタリア語でしゃべり、独り言もイタリア語。
一か月たつ頃にはスペイン人学生に追いつけました。
※左脳を使って、順序だてて理論的に学ばないとおちつかない方は、従来の文法書を使うやり方で勉強してください!
7月一杯の初心者コースが終わって・・

ナポリ旅行に出。
超ビンボー旅行だったけど、土地の人達と会話必須。
これで生きたイタリア語日常会話が身についた!
ここまで2か月。
9月からシエナに帰り3か月間の初級コース受講。
その後アカデミアへの出願は各自出身国からしないといけないとなり、帰国。
これは日本からもちろん知ることが出来ます‥
イタリア語のおかげででチップが〇〇万円!!??
日本に一時帰国していた間‥
冬季オリンピックのイタリア人選手団の通訳をしました。
私が開催地の山の中についた時。
ちょうど常連金メダリストアルベルト・トンバ選手が自家用ヘリコプターで到着!
その時金メダルを2つ取る女性選手がいて、二人で楽しく日本文化の話をしました。
彼女の帰国の日、通訳の私に差し出された封筒‥
中にはお礼のチップ!
イタリア語が日本でマイナー言語なおかげです。
国立美術アカデミアで本物の知識人からアートの知識を伝授!
そして東京で2月の国立ローマ美術アカデミア舞台美術科に出願。

東京のイタリア大使館に行って願書提出をしないといけません。
日本での書類は公定翻訳が要ります。
霞が関にも行きました。
ビザも申請、もらうのに一週間。
これだけで5か月見ておいても・・
夏にまたシエナ外国人大学へ。
今度は中級コースを受講。
なのでイタリア語習得はスルーしてローマのアカデミア入学試験へ。
でもとても簡単な外国人枠の実技程度で、定員もたくさんありました。
※これは数年前まで。
今は外国人枠が決められていて、試験もかなり難しいです。
入学して一番感じたことはイタリア人が持っているケタ違いなアートへの造形の深さ。
パン屋さんもIT関係者も、美術史はイタリア人なら小学生から必須の常識!!
その美術史をベースにして制作アイデアのでてくること!

差を埋めないと!
まずはクラスメート全員に聞きまくり。
一回聞いてみると話がとまらない!
マシンガントークとともにローマ中を案内してもらったり‥
古本屋さん、考古学者、デザイナー、コックさん‥
手当たり次第に誰にでも質問。
そのうちイタリア全土に美術館・博物館・教会・遺跡を訪ね歩くように。
新たな美術畑の人脈とともに本物を見まくりました。
2章 イタリアのデザイン事務所に体当たり、やり手社長の正しい商業デザイン!
【2章】イタリアのデザイン事務所に体当たり、やり手社長の正しい正しい商業デザイン!

この章は私がイタリアであっという間にデザイナーになれたきっかけについてです。
24歳、イタリアに住んで2年目。
それは正しい商業デザインのノウハウをやり手社長から直接学びつくしたから。
イタリアのデザイン事務所へ体当たり職探し!
さっそくバイト探し。
まず画家の友人にデザイン事務所の名前を教えてもらいました。
イタリアには個人経営のアトリエがた~~っくさん!!
その中で可能性を感じたのがFデザイン事務所。
ここが一番手描きの植物デザインを大切にするところのよう‥
『私という日本の手描き友禅職人』の需要が一番ありそう。
そしてこの事務所は
と思い、ここに聞いてみることに。
もちろんデザイナー公募なんかしてない。
自分で直接電話で体当たり。
すると自作の植物画を数枚持ってきてくれと言われました。

私は数枚どころか100枚持って行きました。
日本画、水墨画、西洋のいわゆる植物デッサン・・
正確なデッサン力だけでなく描くスピードを見てもらいたかったから‥

コワい社長が直接絵をジロジロ。
その後実技試験日が3日間‥
めでたく採用となったけどコワかった!
こうして私はイタリアでフリーランスのテキスタイルデザイナーに‥
イタリアのデザイン事務所で実際に働くって?

やり手社長に毎日言われたこと↓↓↓
「あなたは描く人、デザインする人。
私、絵は描けない。
でも売れるものはわかる。
売り方もわかる。
私はマーケティングする人だから。
自分勝手なデザインはしないで。
私が道を示すから”需要があるもの”を作って。」

ワンマン社長みたいですが、当たり前のことを言っています。
彼女はユダヤ系アメリカ人とハンガリー系イタリア人のハーフ。
苦労もそれなりにしたらしい。
私がそれまでやってきたのは着物デザイン。
高価な一点ものの芸術作品をつくること。
デザインから染めるまで、一点作るのに何か月もかかって当たり前。
今回飛び込んだのは全然違う新しい商業デザインの世界。
それを業界のプロから直接指導される毎日。
量産、スピード、需要、売れる、売れない・・
ところで
目標は各国の生地見本市で売れること。
まずは見本市を選んで、その方向にあったデザイン画を何点か出品します。
そこで売れた自分のデザインだけをリノベーションして次の見本市へ出品します。
これの繰り返しを、ものすごいスピードでこなします。

あるときプラダでくちびるをプリントしたラインが発表されました。
水墨画調、日本画調、リアル、漫画風、鉛筆、顔料・・いくらでもリノベーション可。
結局、水墨画調のものがたくさん売れました。
ようするに出品数が少なくて需要があるデザインが売れました。
凝った芸術的デザインでなくていいんです。
ヨーロッパクラシックデザインも絶対イタリア人に負けないために

それなら常にヨーロッパで需要のあるクラシックデザイン!
これで絶対イタリア人デザイナー並みの需要を獲得しないと。

クラシックデザインとは、植物をモチーフにした伝統的なデザイン。
ほんのちょっと日本っぽい画風のものが売れました。
そして現代ではやはりiPadやコンピューターで描く方が主流です。
私は手描きならではの素朴な味があるものは描きませんでした。
機械より正確に!
人間にしかできないはずしパターンを入れるようにしました。
インテリア用のテキスタイルデザインは、80センチごとに繰り返されるパターンで描きます。
繰り返されるパターンだけだとコピー機の勝ち。
着物のデザインにはこう言うものがすごく多いですよ!
通常デザイナーからこのパターン付けは、ややこしくて大変なので嫌われるんですが・・
着物のキビシイ、デザインのお約束に比べたらインテリアテキスタイルデザインの決まりなんて何でもないし。
でも!
私もカッコいい最先端デザインをやりたかったんです!!
でもそれだとやっている人が多い。
まあ、クラシックデザインの方が需要がある割には作る人がいない穴場‥
知っていたので、それだけをやりました。
- 需要があるものだけを作る
- 今あるデザインをもっと洗練させてリノベーションする
- デザインとはデザイナーが作りたいものを作るのではない
- 作ることとマーケティングすることは別の仕事
これがイタリアのテキスタイルデザイン事務所でまず身をもって叩き込まれた、デザイン哲学です^^
次のステップへ!!
イタリアのテキスタイルデザイン界にも慣れた1年後のこと。
と思うように。
そんなある日、
というニュースが飛び込んで来ました。
【3章】超難関!イタリア国立映画実験センターで不滅の衣装デザイナーから直指導
一年ばかりイタリアのテキスタイルデザイン事務所でデザイン哲学を叩き込まれた私。
わかったけど‥
やっぱりデザインだけじゃなく実際動く自分の作品作ってみたくなっちゃった!
激戦、イタリア国立映画実験センター受けてみる?

イタリア国立映画実験センターに受かった友人トンマーソ。
彼に偶然会った時。
「きみも受けてみれば?」
でも受験資格26歳までだから最初で最後のチャンス‥
『映画・舞台の衣装デザイナーコースに挑戦する』こと。
当時はイタリア映画界で働くってクモの上の話に思えました。
今だから言いますが、コネやそこまで才能がなくても衣装デザイナーになれます。
名刺代わりになるくらいネームバリューのある機関を卒業することでした。
イタリアでは映画が巨大産業。
イタリア全土の紀元前から残る遺跡やお城ですぐに撮影できるし。
戦前からの長い歴史もあるイタリア映画界。
だから映画学校も国をあげての専門研究機関になるのです。
ーCentro Sperimentale di Cinematografiaー
通称CSC、日本ではイタリア国立映画実験センターと呼ばれます。

当時衣装デザインコース教授はヴィスコンティ監督のデザイナーだったピエロ・トージ氏。
彼がアカデミー名誉賞受賞の不滅の衣装デザイナー。
世界中のデザイナーの憧れの人。
って失礼!
ヴィスコンティ映画『山猫』の撮影中、引き出しが空っぽなのに気が付いた監督は30歳だったトージ氏に激怒。
急いで引き出しをいっぱいにしたのは映画史上最も有名な逸話。

ジョゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』の美術担当。
そしてヴィスコンティ映画の撮影監督のジョゼッペ・ロトゥンノ氏までいるという豪華ぶり。
受験は3月の書類審査から12月の2次試験終了までと、長期間。
でも絶対無理とか考えるヒマなく申し込まないと出願締切!
書類審査は大量に描いたものから選んで提出
3月、15枚以上のデザイン画を提出。
ハイクオリティじゃないといけないので100枚くらい描いた中から厳選。
この書類審査でまず30人に絞られました。
この時26歳以下であることが応募条件。
これは合格。
1次試験でパニック

5月、1次試験は実技2日間。
試験はシナリオを渡されての衣装と舞台美術のデザイン。
「そこそこの作品を100枚描かないこと。1枚でもいいから完璧なデザインをすること。」
って試験官のクリザンティ氏に言われました。
初めて会った実物の巨匠たち。
わたしは感動して怖くて緊張してガッチガチ。
一枚でいいって言うからホントに一枚しか提出しませんでした。
っていうか、かろうじて一枚提出できました。
キオスクって言うのがなぜか何か分からなくなって‥
駅の売店ですよね?
パニックになってたみたいです。
給食も出ましたがもちろんのどを通らず‥
やせたかも。
ここもパス。
絶対合格したかったので急いで近所のイタリア語学校へ。
レベルがなくて超上級レベルコースを作ってもらいました。
2次試験は根性で
今度は10月から2か月間の実技試験。
実際に映画実験センターに通って製作するのが試験。
試験中ずっと制作態度、伸びしろを見られています‥
シナリオを渡されて衣装と舞台美術のデザイン、映画論の小論文が試験内容。
映画論の講義なんですが。
午前中必ず実験センター地下の映画館で映画を観て、それについての講義。
わたしはその時すでにネイティブスピーカーだったけど。
ここの授業はイタリア語がビジネスレベルじゃないとむずかしいです。
試験用のシナリオはヴィスコンティ監督の『白夜』。
第二次世界大戦が舞台。
これをいかに時代考証をまちがえず、登場人物の性格を決定するデザインできるかがカギ。
(って言うのはもちろん後で気付いたんですけどね。
当時は受験生にも教授にも圧倒されてな~~んにも考えられませんでした。)

図書館に行って当時の資料を調べまくる‥
国立映像ライブラリーも兼ねているので資料が膨大。
皮表紙で重くて骨折覚悟。
今に残っている写真もこれまた大量!
全部一つづつチェックして使えるか選ぶのだけで時間がたっちゃったり‥
結局実験センターにいる間は調べ物と映画を観るので時間がたつ‥
数は描けませんでした。
でも登場人物の性格を決定する衣装デザインにはなっていたかと思います。
あと一週間で試験期間終わりという時。
教授たちが
「もう合格者は決定している」
みたいなことを言っていました。
とにかくこの合否はどうやって決めるのか、今でもナゾ。
結果、日本人では初めての合格者に。
首席になって奨学金も勝ち取りました。
それでバイトはしなくてすみました^^
ここがわたしの映画衣装デザイナーとしてのスタートに。
私の衣装デザイナーのスタートは映画実験センターで不滅の衣装デザイナーからしぼり取ったから(笑)
この映画実験センターではいろいろ面白いことが。
フランスの大女優、故ジャンヌ・モローさんと映画衣装について大事なお話しをした時。
「衣装は役に入ちこむためにとても需要。国の違いなんて関係ない、がんばってね。」
って言ってくれました。

同期にたくさんの映画監督がいたので、彼らの映画の衣装デザインをするようになったのもこの頃。
カンヌ・ヴェネツィア映画祭受賞者のフランチェスカ・アルキブージ
『楽園の中へ』のパオラ・ランディ監督
ドキュメンタリーのドメニコ・ディスティーロ監督
そのほかたくさんの人とコラボできました。

ウォン・カーウェイ監督といっしょに彼の映画「2045」を観たとき。
終わってから監督を見ると映画館なのにサングラスが?
それから制作費が高いから日本で作れないよ~と言っていました。
またある時はメル・ギブソン監督がイタリアで映画『パッション』の撮影中。
衣装デザイナーから造花を一日100個作るよう言われました‥
毎日100個!多くない?

もちろんあの『山猫』のクラウディア・カルディナーレともお話しましたよ。
私は映画実験センター卒業時に、トージ氏から
「ミレーナ・カノネーロのところへ行ってみないか?」と言われました。
そして行先はソフィア・コッポラ監督の制作現場でした。
【4章】ソフィア・コッポラの映画『マリー・アントワネット』に参加、あの巨匠に密着

私がハリウッド映画で働けるたった一つの理由は?

コネや才能、お金、キャリアではありません。
ヨーロッパ映画業界で「イタリア国立映画実験センター卒」。
というと、すでにプロ=即戦力とみなされます。
名刺を体に貼り付けているようなものだからです。
映画『マリー・アントワネット』で大規模ハリウッド映画にビックリ!

私の卒業時ソフィア・コッポラ監督は映画『マリー・アントワネット』制作中。
恩師トージ氏に言われてわたしがローマの衣装工房へ着くとその日から

「あ、この子センター卒の子」
「ちょうどよかったちょっと来て!」みたいな感じですぐ現場制作が始まりました。
映画製作現場はネコの手も借りたくらい忙しいので、人手はありがたい。
マリー・アントワネットのドレスをデザインしてみた

ある日ソフィアコッポラ監督と衣装デザイナーのミレーナ・カノネーロから呼ばれて‥
「こんなイメージのドレスが作れるかしら?」
と渡された一枚のアイデアスケッチ。
ドレス前面に青いバラが描かれたものでした。
すぐに制作に入りました。
はじめはローマで、それからパリで。
これまで低予算映画をやっていたのでハリウッド映画の規模と展開の速さに目が!
世界的有名女優がやってきて

ある日アトリエに、す~っと色白の女の子がたった一人で‥
ナント!
びっくり仰天、でも映画『マリー・アントワネット』の主役ですから当然。
真っ白なソファーと絨毯、
白い豪華なドレスで寝そべっているキルスティン・ダンスト・・
衣装合わせの最中
「ミルクティーをください」
と言われました。
「日本のグリーンティーは?」
とわたしのおやつ用のお煎茶を差し上げると‥
喜んでくれました^^
持っててよかった、見本集めにバイクでローマ中を疾走!
撮影開始日が近づいてきました。
ローマの衣装工房はパリ工房へ引っ越しするのです。
ベルサイユ宮殿にもっと近くないとね。
その時わたしだけバイクを持っていました。
もちろん50㏄ね。
運転手さんもいましたがおベンツでした。
渋滞のローマではバイクしか使えないので私に指令が。
大至急ローマ中の生地見本を集めよ!
これをすべて集めるのが今回のお使い。

ここから購入する生地が決定され、無事に生地を大量購入してパリへと持っていくことが出来ました。
その量といったら!トラックに何台分も。
ハリウッド映画の規模をみました‥
老舗の靴工房へ靴の注文に行くこともありました。
マノーロ・ブラニックの靴はほんの一部でしたから。

ヘアスタイルの試作もおもしろかった。

撮影も半ば、パリ工房で監督から差し入れがあった日。
みんなにはパリのお菓子でしたが私は
「おつかれ様です~」
っておスシの折詰をもらいました^^
マカロンと黄色いたくあんのコントラスト( ´艸`)
世界一流スタッフが結集、映画は大ヒットしました。
ミケーレ・プラチドの映画初プロデュース作品に参加!
しばら~くして。
息子が生まれ、6か月だったころ。
赤ちゃんがいるからどうしようか‥
でも監督に「問題ない」と言われたので衣装デザイン担当となりました。
シナリオは偽装婚、娼館、逃走、女装、移民‥
イタリアの現代を切る盛りだくさんな内容。
この頃から子供はいつもわたしと一緒。
日本ではワンオペって言うんですね。
イタリアの70年代にフィーバーした大女優、エレオノーラ・ジョルジ監督作品にも参加。
かなりの年齢ですが超ゴージャス美人。
その元夫がプロデューサー(汗)
撮影は毎日夕方から始まり、わたしは明け方帰宅。
そのまま朝、息子を保育園に。
この頃は夜、息子はさすがにお父さんといましたよ。
ホラー映画撮影現場で人肉の作り方を学ぶ‥

イタリアホラー映画の大監督ダリオ・アルジェント協力作品にも参加。
人肉をたくさん作って保管しておくのもわたしの仕事。
特殊メイク班が作り方を教えてくれて‥
- ミンチに特殊メイク用の血のりを混ぜてよく練る
- 緑色や白い粉を少しかける
- 指のカタチなどパーツに成型してラップで包んで固めておく
これを私が量産‥
確かにいるだけでホラーな雰囲気出せちゃう人です。
『マリー・アントワネット』の映画でもご一緒しました。
悪女役も多いですが、実際はとてもやさしい人礼儀正しい人です。
パゾリーニ、フェッリーニ映画で有名なファラーニ衣装工房で多忙!

この頃から今に至るまでずっとローマのファラーニ衣装工房でよく仕事をします。
いるだけでわくわくするところ。
初めは映画研究所の友達の紹介でした。
工房で大至急、特殊加工スタッフを探していたから。
おもしろかったのでばりばり仕事をしました。
そのうちに注文制作がどんどん来るようになって。
テレビドラマ『ヴィヴァルディ』でアレッサンドラ・トレッリ
オペラ『トゥーランドット』でフランチェスカ・スクワルチャピーノ
などからの注文です。
ここは世界有数の衣装工房で、天井からずらりと下がる衣装‥
巨大倉庫にも歴代映画で使われた衣装がぎっしり。
そしてパゾリーニ、フェデリコ・フェッリーニ映画の衣装はもちろん大切に保管。
工房長の家の木の箱の中にあるのを見せてもらいました^^
ここでローマオペラ座のバレエやオペラの衣装もたくさん作りました。
ここまで特殊な体験から体当たりで人脈を得てデザイナーになった経緯でした。
私の出会った人物の多くは鬼籍に入られているし‥
【3章】超難関!イタリア国立映画実験センターで不滅の衣装デザイナーからしぼりとれ!
※掲載されている写真は関係者に許可を得て掲載しています。
無断転用は絶対におやめください。