【1章】20歳で着物デザイナー、人間国宝級のテクを盗んでイタリアへ
【2章】イタリアのデザイン事務所に体当たり、やり手社長の正しい正しい商業デザイン!
【3章】 超難関!イタリア国立映画実験センターで不滅の衣装デザイナーからしぼりとれ!←イマココ
一年ばかりイタリアのテキスタイルデザイン事務所でデザイン哲学を叩き込まれた私。
わかったけど‥
やっぱりデザインだけじゃなく実際動く自分の作品作ってみたくなっちゃった!
目次
激戦、イタリア国立映画実験センター受けてみる?
イタリア国立映画実験センターに受かった友人トンマーソ。
彼に偶然会った時。
「きみも受けてみれば?」
でも受験資格26歳までだから最初で最後のチャンス‥
『映画・舞台の衣装デザイナーコースに挑戦する』こと。
当時はイタリア映画界で働くってクモの上の話に思えました。
今だから言いますが、コネやそこまで才能がなくても衣装デザイナーになれます。
名刺代わりになるくらいネームバリューのある機関を卒業することでした。
イタリアでは映画が巨大産業。
イタリア全土の紀元前から残る遺跡やお城ですぐに撮影できるし。
戦前からの長い歴史もあるイタリア映画界。
だから映画学校も国をあげての専門研究機関になるのです。
ーCentro Sperimentale di Cinematografiaー
通称CSC、日本ではイタリア国立映画実験センターと呼ばれます。
当時衣装デザインコース教授はヴィスコンティ監督のデザイナーだったピエロ・トージ氏。
彼がアカデミー名誉賞受賞の不滅の衣装デザイナー。
世界中のデザイナーの憧れの人。
って失礼!
ヴィスコンティ映画『山猫』の撮影中、引き出しが空っぽなのに気が付いた監督は30歳だったトージ氏に激怒。
急いで引き出しをいっぱいにしたのは映画史上最も有名な逸話。
ジョゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』の美術担当。
そしてヴィスコンティ映画の撮影監督のジョゼッペ・ロトゥンノ氏までいるという豪華ぶり。
受験は3月の書類審査から12月の2次試験終了までと、長期間。
でも絶対無理とか考えるヒマなく申し込まないと出願締切!
書類審査は大量に描いたものから選んで提出
3月、15枚以上のデザイン画を提出。
ハイクオリティじゃないといけないので100枚くらい描いた中から厳選。
この書類審査でまず30人に絞られました。
この時26歳以下であることが応募条件。
これは合格。
1次試験でパニック
5月、1次試験は実技2日間。
試験はシナリオを渡されての衣装と舞台美術のデザイン。
「そこそこの作品を100枚描かないこと。1枚でもいいから完璧なデザインをすること。」
って試験官のクリザンティ氏に言われました。
初めて会った実物の巨匠たち。
わたしは感動して怖くて緊張してガッチガチ。
一枚でいいって言うからホントに一枚しか提出しませんでした。
っていうか、かろうじて一枚提出できました。
キオスクって言うのがなぜか何か分からなくなって‥
駅の売店ですよね?
パニックになってたみたいです。
給食も出ましたがもちろんのどを通らず‥
やせたかも。
ここもパス。
絶対合格したかったので急いで近所のイタリア語学校へ。
レベルがなくて超上級レベルコースを作ってもらいました。
2次試験は根性で
今度は10月から2か月間の実技試験。
実際に映画実験センターに通って製作するのが試験。
試験中ずっと制作態度、伸びしろを見られています‥
シナリオを渡されて衣装と舞台美術のデザイン、映画論の小論文が試験内容。
映画論の講義なんですが。
午前中必ず実験センター地下の映画館で映画を観て、それについての講義。
わたしはその時すでにネイティブスピーカーだったけど。
ここの授業はイタリア語がビジネスレベルじゃないとむずかしいです。
試験用のシナリオはヴィスコンティ監督の『白夜』。
第二次世界大戦が舞台。
これをいかに時代考証をまちがえず、登場人物の性格を決定するデザインできるかがカギ。
(って言うのはもちろん後で気付いたんですけどね。
当時は受験生にも教授にも圧倒されてな~~んにも考えられませんでした。)
図書館に行って当時の資料を調べまくる‥
国立映像ライブラリーも兼ねているので資料が膨大。
皮表紙で重くて骨折覚悟。
今に残っている写真もこれまた大量!
全部一つづつチェックして使えるか選ぶのだけで時間がたっちゃったり‥
結局実験センターにいる間は調べ物と映画を観るので時間がたつ‥
数は描けませんでした。
でも登場人物の性格を決定する衣装デザインにはなっていたかと思います。
あと一週間で試験期間終わりという時。
教授たちが
「もう合格者は決定している」
みたいなことを言っていました。
とにかくこの合否はどうやって決めるのか、今でもナゾ。
結果、日本人では初めての合格者に。
首席になって奨学金も勝ち取りました。
それでバイトはしなくてすみました^^
ここがわたしの映画衣装デザイナーとしてのスタートに。
私の衣装デザイナーのスタートは映画実験センターで不滅の衣装デザイナーからしぼり取ったから(笑)
この映画実験センターではいろいろ面白いことが。
フランスの大女優、故ジャンヌ・モローさんと映画衣装について大事なお話しをした時。
「衣装は役に入ちこむためにとても需要。国の違いなんて関係ない、がんばってね。」
って言ってくれました。
同期にたくさんの映画監督がいたので、彼らの映画の衣装デザインをするようになったのもこの頃。
カンヌ・ヴェネツィア映画祭受賞者のフランチェスカ・アルキブージ
『楽園の中へ』のパオラ・ランディ監督
ドキュメンタリーのドメニコ・ディスティーロ監督
そのほかたくさんの人とコラボできました。
ウォン・カーウェイ監督といっしょに彼の映画「2045」を観たとき。
終わってから監督を見ると映画館なのにサングラスが?
それから制作費が高いから日本で作れないよ~と言っていました。
またある時はメル・ギブソン監督がイタリアで映画『パッション』の撮影中。
衣装デザイナーから造花を一日100個作るよう言われました‥
毎日100個!多くない?
もちろんあの『山猫』のクラウディア・カルディナーレともお話しましたよ。
私は映画実験センター卒業時に、トージ氏から
「ミレーナ・カノネーロのところへ行ってみないか?」と言われました。
そして行先はソフィア・コッポラ監督の制作現場でした。
4章 ソフィア・コッポラの映画『マリー・アントワネット』に参加、あの巨匠に密着!
2章イタリアのデザイン事務所に体当たり、やり手社長の正しい商業デザイン!